ごあいさつ

ここは、2019年7月から2021年12月までの約2年半にわたってわたしがアメブロで書いてきた「わたしの知らない創価学会」のアーカイブです。

だいたい15年ぐらい活動してきた間に、わたしの中で少しずつ大きくなってきた学会組織に対する違和感。

それをどうしていいかわからなくて自分で整理するために書き始めたんですけど、最初の3ヶ月で学会に対する考え方は激変!

結果として、バリ活だったわたしが〈アンチ創価〉に変わっていく心の動きが克明に記録されました。


その後、世の中は新型コロナウイルス禍によって大きな影響を受け、その中で感じたことなどもその都度書いてます。

2年半書き続けて、「創価学会についてわたしが書けることはだいたい書いちゃったかな」て思ったので、もうこのテーマからは卒業することにしました。


全部で770本近い記事があるので、簡単に各カテゴリの内容をご案内しておきますね😄


「活動のこと」

主に学会活動について書いた記事です。わたしが活動する中で経験したこととか、活動のあれこれについて書いてます。


「学会組織について」

学会組織の仕組みとかそれについて考えたこととか。わたしが体験したり調べたりした範囲で書いたものです。


「教学のこと」

教学マニアなわたしが、創価学会の解釈とはちょっと違う角度から読んだ座談会御書の記事が中心です。


「足りない脳みそで読む法華経」

植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下巻で法華経全28品をわたしの足りない脳みそで読んで、好き勝手に記事にしたものです😅


「公明党と政治のこと」

創価学会が全組織を挙げて支援してる公明党と、この国の政治について思ったこと・考えたことなどを書いてます。


「考えたこと」

創価学会に関することだけじゃなくて、その時々でわたしが感じたり考えたりしたことをまとめています。


「暮らす」

日々の暮らしの中で感じたことを書いたもの。創価学会とは関係ない話題がほとんどかな?🙄


「存在論的ひとりごと」

うーん、このカテゴリは一言じゃ説明しにくいなあ💦森羅万象や「生きていまここに在ること」について書いたものです🤔


「ブログ」

上記のカテゴリには収まらなかったあれこれ。ネタ記事とかもだいたいここに入ってます🤭


ここはあくまでアーカイブなので、新規のコメント等は受けつけていません。アメブロの時にいただいたコメントについても、すべて非公開としました(転載のご了承をいただくのが困難なので…)

あと、ツイッターはやめちゃったので、記事中にスクリーンショットを表示してます。わたし以外のアカウントからのツイートを引用した場合は当該ツイートへのリンクを貼ってあります。



学会活動の中で戸惑いを感じたり違和感を持った人に、このブログの一部にでも触れてもらって、ご自分で考えるきっかけにしてもらえたらいいな、て願ってます😊


2022年1月 とも

学びを広げる

新緑がまぶしい季節になりましたね!
人間の世界はいろいろあるけど、生き物たちはいつもの年と変わらずに命の営みを続けています。
さわやかな風に乗って聞こえてくる鳥たちのさえずりを耳に、新緑の香りを胸いっぱいに吸い込みながらのんびり散歩するのも気持ちいいですね😊

 

さて、今月の座談会御書は「妙密上人御消息(みょうみつしょうにんごしょうそく)(pp.1237-1242)からです。
これも、2020年12月にまったく同じ範囲を読んでましたね🙄

※ 参考:「サービス精神」

まずはいつものように本文をご紹介しましょう。

(こがね)はやけば弥(いよいよ)色まさり
(つるぎ)はとげば弥(いよいよ)(と)くなる・
法華経の功徳はほむれば弥(いよいよ)功徳まさる、
二十八品は正(まさ)しき事はわずかなり
(ほ)むる言(ことば)こそ多く候へと思食(おぼしめ)すべし
(pp.1241-1242より)

※ ブログで読みやすいように適宜改行しました。

続いてわたし訳。前回の記事からちょっとだけ変えました。

 

金は(製錬するために)焼けばさらに色が増し、剣は研げばさらに切れ味がよくなります。
(それと同じように)法華経の功徳は讃えるほどますます強まります。
(法華経の)二十八品は、確かな(ことを述べている)箇所はわずかで、それを讃えている言葉が多いことをお考えなさるのがよいでしょう。

 

「妙密上人御消息」は建治2年(1275年)閏3月、身延で著されたとされてますけど、こちらも真筆・古写本ともにないようです(いつものことですが😅)
このお手紙のあて先である妙密上人とその女房についても、鎌倉の福谷(くわがやつ)に住んでいたというだけで、詳しいことはわかりません。
内容的には、「青鳧(せいふ)五貫文」(p.1237より)という大金を送り届けてくれた妙密上人を日蓮さんが長々と褒めに褒めちぎっている、ていうのがこのお手紙でした。

今回の引用範囲はその末尾、結論部分に当たります。

 

最後に「讃むる言こそ多く候へと思食すべし」てありますけど、これは実際に法華経を読んでみたら納得です。
「この教え(妙法蓮華経)はすごいんだぞー!」ていう内容が手を変え品を変えうんざりするぐらい何度も繰り返されますから💧

あまりにも自画自賛が多いもんだから読んでてヘキエキしますけど、一方でドラマティックな展開があったり巧みな譬喩が用いられていたりと、読ませるための工夫もしっかりされてて、とても楽しく読めました。

でも残念なことに、創価学会の人たちで実際に法華経を読んでみた人ってほとんどいないんですよね😔
なのに、毎日朝晩「南無妙法蓮華経」と唱えまくって法華経への帰依を誓ってるという、なんとも不思議な状態です😅

わたし自身、活動家だったころは時間的にも精神的にもそんな余裕なんてなかったから、池田大作さん名義の書籍とか聖教新聞のコラムとかを読んでなーんとなくわかった気になってただけでした💦
わたしが法華経を実際に読んだのは、活動から離れて組織との距離ができてから。
ずーっと「法華経には実際どんなことが書いてあるんだろう?」て興味はあったけど、忙しすぎて読むことができなかったんだから皮肉なものですよね。

その成立過程などをちゃんと学べば、法華経はあくまで「仏教文学」とでも呼ぶべき創作物だということがわかりますし、だからといって書かれている内容のすべてが無意味なもの・つまらないものというわけでもないことも腑に落ちるはず。

 

日蓮遺文もそうですけど、創価学会の中では基本的に組織が選んだものをみんなが同じ解釈に従って読むことが推奨されています。
わたしがこうして毎回取り上げてる座談会御書にしても、多くの地区座談会では地区部長が大白蓮華の解説文をそのまま朗読しておしまい😑
大白蓮華の座談会御書の記事って訳文も固いし解説もいつも同じような方向に誘導するものばかりで、はっきり言ってつまんないんですよね。
最近はSOKA YOUTH MEDIAなどでちょっとくだけた感じのコラムもちょいちょい出てきたけど、どっちみち結論が決まってるから話題にはなかなか広がりが感じられません。
もったいないなあ…てわたしは中にいたころからずっと思ってました🤔

だって、同じ文章でも人によって気になるところはそれぞれなんだから。

わたしはいつも御書の記事を書くとき、意味がよくわからない語句を必ず古語辞典や漢和辞典を使って調べています。
同じ語句でも現代とは意味がちょっと違っていたり、おなじみの漢字に別の意味があったりすることを知るのはとても楽しいですよ😊
もちろん、そうして学んだことがすぐに何かの役に立つことはないんだけど💧

でも、学ぶことって必ずしも役に立つ必要なんてなくて、好奇心に導かれて少しずつ自分の世界を広げていくことが一番大事なんじゃないかな、てわたしは思うんですよね。

そうして自分の世界を広げることで、それまで見えなかった世界がちょっとずつ見えるようになること。
成長と言えるほどの変化じゃなくても、それを積み重ねていくことで世界は必ずしも一つじゃないってことを知ること。
時代や社会がいくら変わっても、人間という生き物が意外に変わってないかもしれない、て思えること。
そして、たくさんの人たちがこれまでに生きてきて、〈いま〉という時間が流れている事実を考えること。

わたしはいつもそんなことを意識しながら読んだり書いたりしています。

 

無慈悲なようだけど

気がついてみたら、わたしが正式に退会してから半年が経っていました。

信濃町に退会届を送って組織に本尊を返したと思ったら翌月に池田大作さんの死去が発表され、わたしが創価学会で活動した日々はなんだか一気に遠くなった気がします。
かなり「どうでもいいこと」の部類になってきてるというか…🤔

 

このブログを始めてもうちょっとで5年になるけど、その間のわたしの変化は本当に大きなものでした。

公明党の支援方針に対する疑問から火がついたわたしの疑問は時間とともに大きくなって、最後には組織だけじゃなくて池田大作さんや日蓮さんの主張にまで燃え広がりました。
そうしてそれまで信じてたものを全部焼き尽くしたから、組織にも信仰にも未練なんてまったくありませんでした。

 

わたしはもう、あの人たちとは信じているものが違う──

 

だから、わたしは創価学会に対して何の疑問も持たない人に何か働きかけようなんて思わないことにしました。

 

これは5年近くこのブログを続けてきて得たわたしの確信みたいなもの。
自分を変えたくない人に何を言ったって、相手の心には何も届かないんです。

 

活動がやりたくて仕方ないのなら倒れるまで徹底的にやればいいし、都合の悪いことを知りたくないのならそのまま目を閉じて搾取され続けてればいい。

 

そうしてあるとき、はたと気づいたら手元に何もなかったとしても、それは自身の選択の結果。

 

無慈悲なようだけど、自分の信じていることをかたくなに変えようとしない人に、外から何を言っても無駄なんです。
痛い目に遭って気づいてもらうしかない。

 

先に同じような目に遭って警告してくれてる人たちの言葉を無視するんだから、そんな結果になっても仕方ないんじゃないかな?

 

組織の中にいた頃のわたしがそうだったようにね😔

 

偽書かどうかよりも

このブログもみなさまのおかげで今年の7月で丸5年を迎えます。
記事数もなんだかんだ言ってついに800を超えちゃいました💧
我ながらよく書いたなあ…

FC2に移ってからは具体的にどのくらい閲覧されてるのかまったくわかりませんけど、今でもひっそり読んでくださってる方々には本当に感謝です😊

 

さて、今月の座談会御書はみなさんおなじみの「生死一大事血脈抄(しょうじいちだいじけつみゃくしょう)(pp.1336-1338)ですね

このブログでも何度か言及してきた「生死一大事血脈抄」ですけど、偽書の疑いが濃厚なことで有名です💧

とりあえず、まずはいつものように本文から見ていきましょうか🙄

相構(あいかま)え 相構えて 強盛(ごうじょう)の大信力を致して
南無妙法蓮華経・臨終正念
(りんじゅうしょうねん)と祈念し給へ、
生死
(しょうじ)一大事の血脈(けつみゃく)
此れより外に全く求むることなかれ、
煩悩即菩提
(ぼんのうそくぼだい)・生死即涅槃(しょうじそくねはん)とは是なり、
信心の血脈なくんば
法華経を持
(たも)つとも無益(むやく)なり
(p.1338より)

※ ブログで読みやすいように適宜改行しました。

 

よくよく準備して、あらん限りの強く盛んな大信力を捧げ、
南無妙法蓮華経・臨終こそ何ものにも乱されぬ信仰だとご祈念なさい。
生死一大事の血脈を
これよりほかに求めてはいけません。
煩悩即菩提・生死即涅槃とはこのことなのです。
(もし)信心の血脈がなければ
法華経の教えどおりに行動したとしても無意味なことです。

 

中にいた頃に何度も読んだくだりなので、今回は通解もそんなに苦労せずにわたし訳できました😊

 

一応ざっと背景を振り返っておきましょうね🙄
このお手紙は文永9年(1271年)2月の執筆とされているので、日蓮さんが佐渡に流されてから4ヶ月ぐらいの時期に書かれたものということになりますが、例によって真筆・古写本ともになしです😟
時期的にはちょうど北条一族の内紛である「二月騒動」が起こり、同じ月の17日には後嵯峨法皇の崩御もあったので少しざわざわした世情だったんじゃないかな?
お手紙をもらったのは最蓮房日浄とされていますけど、この人物も詳細不明💧

内容的には「生死一大事の血脈とは何か?」という疑問に答える形で書かれたものです。

むちゃくちゃおおざっぱに言うと、「はるか久遠の昔に成道した釈尊と、誰もが仏の道を成就できると説く法華経と、私たち衆生との三つにまったく違いはないと理解して、妙法蓮華経と唱ることを生死一大事の血脈と呼ぶのです」(p.1337より趣意)ていうのがこのお手紙の趣旨です。
でも一方で、「仏法を謗(そし)ってそれを信じない人たちは「即ち一切世間の仏種を断つ」といい、仏になるための種子が途絶えているので、生死一大事の血脈は無いのです」(同上)という一文があるように、成仏に条件をつけてもいます。

どっちやねん…😅

ちなみに、調べてみたら「即断一切世間仏種」というのは法雲という人による法華経の注釈書「法華経義記」からの引用みたいです。

 

いつも言ってるように、わたしにはこれが偽書かどうかを判定する能力はないんだけど、仮に偽書だとするといったいいつ頃、誰が、どのような目的でわざわざこんなニセモノを書いたのかは大いに興味があります🤔
偽書とはいっても必ず誰かが書いたわけで、何の意図もなくそんな面倒なことをするとはとても思えないんですよね。
そして、それは必ずしも悪意に基づくものとは限らない、とも考えています。
現代とは文献の信憑性に対する考え方が違うから、後から出てきた新しい考えを自宗に取り入れようとして偽書を書いた人がいたのかも…

もちろん、教団内外の政治的な思惑に基づいて特定の一派に都合のいい内容を捏造して事を有利に運ぼう、て動機が一番濃厚だとも思うけど💧

 

そもそもゴータマさんは自分自身では何も書き残さなかったわけだから、厳密な意味で言えば膨大な経典すべてが「偽書」だと考えることもできます😥
それを言っちゃったら仏教諸宗は根幹から崩れてしまうんだろうけど、無数の人たちがかかわってつないできた仏教の歴史すべてが無駄だというわけでもないし。
なので、わたしみたいな一般人が偽書か偽書でないかを厳密に区別することにそれほど大きな意味はないような気がします。

「仏」については「これが正解!」てものは実は何もなくて、先人たちの言葉をヒントにいまを生きてるわたしたちがそれぞれに考えて自分なりの答えを出そうとすることのほうが大事なんじゃないかなあ…🤔

日蓮さんが実際にどう考えてたかは別にして、わたしにとっての「血脈」はそんな感じのイメージです。

 

続きを読む

親子の諸相

毎年3月になると、命のことについて考えてしまいます。
もちろん東倭国大震災のこともあるんだけど、ものすごく個人的な経験があった月でもあるので…
自分の選択が本当にあれでよかったのかどうか、どれだけ時間が流れてもわたしにははっきりとした答えは出せないままです。

 

さて、今回の座談会御書は「兵衛志殿(ひょうえのさかんどの)御返事(三障四魔事)」(pp.1090-1093)なんですけど、これ4年前の2020年3月度にもまったく同じ範囲を読んでますね🙄
(参考:「〈三障四魔〉とは言っても」

なので、正直言ってわたしのモチベーションもだだ下がりです😩

 

のっけからぐだぐだですけど💧、まずはいつも通り本文から見てみましょうか。

しを(潮)のひると・みつと
月の出づると・いると・
夏と秋と冬と春とのさかひ(境)には
必ず相違する事あり
凡夫の仏になる 又かくのごとし、
必ず三障四魔(さんしょうしま)と申す障(さわり)いできたれば
賢者はよろこび愚者は退く これなり
(p.1091より)

※ ブログで読みやすいように適宜改行しました。

 

潮が引くとき、満ちるとき。
月が出るとき沈むとき。
夏から秋、冬、そして春へと季節が移り変わるときには、
必ずそれまでと違うことが起こる。

凡夫が仏になるときも、それと同じように必ず〈三障四魔(さんしょうしま)〉というよくないことが起こるものだが、
賢い者はそれを喜び、愚かな者は後に引いてしまう、とはこのことだ。

 

めんどくさいので、通解も前回から使いまわしました😅

 

目録を確認したところ、「兵衛志殿御返事」は京都妙覚寺に正筆が残ってるようです。

前回も読んでるからいいかな、とも思ったんだけど一応改めてまじめに全文を読みましたよ💧

ざっくりと経緯をおさらしておくと、日蓮さんの門下になった池上宗仲・宗長兄弟は、父親の左衛門大夫康光(さえもんのたいふやすみつ)から信仰を捨てるよう迫られて、兄の宗仲は2度も勘当されてしまいました。
この事態を受けて、弟の宗長が社会的な体裁に気をとられて信仰を捨てないよう、日蓮さんが釘を刺したのがこのお手紙でした。

 

えーと、前回の記事では日蓮さんの主張に対してかなり好意的なことを書きましたけど、今回改めて読んでみたらだいぶ印象が変わりました。

はっきり言うと、「感じ悪い」です😑

なんでかっていうと、宗長を自分の側に囲い込んでおこうっていう意図が透けて見えたから。

「こっちは正しいことをしてるんだから相手の言うことに従う必要なんかない、兄とともに信仰を貫いて、最終的には親をも導け!」ていうのは、多くのカルト団体の論理と共通してるからです😥

 

ここ数年、いわゆる「宗教2世」の問題がだいぶクローズアップされるようになりました。
「自分は正しいことをしているんだ!」ていうこの論理を、親が子に押しつけてしまうのが宗教2世問題の根本原因です。

親という立場を利用してこどもに自分の信仰を押しつけてしまうわけだから、こどもには最初から選択の余地がありませんよね💧

当たり前だけど、親にとっては正しいことが、こどもにとっても同じように正しいとは限りません。

だから、たとえ親子といえども、親がこどもに自分の考えを一方的に押しつけていいということにはならないはずです。

こどもは親の「所有物」じゃないんだから。

 

ものすごく個人的なことを書くけど、わたしは小さいころからずっと母親に抑圧されて育ったと感じてます。
だから、わたし自身は「宗教2世」ではないけれど、親と話がかみあわない悲しみが少しはわかるつもり。

わたしが創価学会に入ったことを打ち明けたとき、母親はほとんど何の関心を示しませんでしたし、はっきりと反対もしませんでした(わたしのいないとこで眉をひそめてたのかもしれないけど…)

だからこそ、わたしは「自分の姿で親をも動かそう!」なんて奮起しちゃった側面もあったかもしれません💧

そこには母親を見返してやりたい…というよりも、母親の関心を惹きたいっていう気持ちがあったのかも、て今から振り返ってみると感じます。

 

結局、わたしは創価学会をやめたわけだけど、母親と隔たりなく話すことはもう諦めました。

わたしがそれを望んでも、向こうはそれを望んでないみたいだから。

 

池上兄弟の場合は、のちに父親を法華経信仰に導いて晴れてめでたしめでたし、になるわけですけど、信仰というとてもセンシティブな事柄で行き違いがある場合にお互いがわかりあえることなんて本当に稀です。

たとえ親子であっても…いいえ、親子という最も身近な関係だからこそ、絶望的にわかりあえない。

わたしは自分の経験からそんなふうに考えるようになりました😔

 

親子って一番ありふれた関係のように思えるけど、そのあり方は本当にいろいろ。
本当に仲のいい親子もあれば、断絶状態の親子もあり、わたしのとこみたいに表面だけのつきあいの親子もあるでしょう。

それぞれが「自分(たち)にとっての最善」を考えていくしかない──

 

それでも、街角で仲よさそうな親子連れの姿を見るたびに、ちょっぴりさびしくはなるけどね…😔

 

プロフィール

とも

Author:とも
アメブロで「わたしの知らない創価学会」てブログをやってました。
ここはそのアーカイブです。

創価学会の組織に疑問を感じた方、学会活動に疲れてしまった方に読んでいただけるとうれしいです!

※ ツイッターはやめちゃったのでスクリーンショットを表示してます。わたし以外のアカウントからツイートを引用した場合はリンクしてあります。

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